『鬼滅の刃』は面白がった人の勝ち⑧
12.設定省略に見る『鬼滅の刃』の分かりやすさ
『鬼滅の刃』は、大正時代を舞台を舞台としています。
と、さらっと書きましたが、割と多くの人が
大正時代を意識せずに『鬼滅の刃』を観ているのではないでしょうか。
それもそのはず、この作品では、
あえて大正時代感を前面に出さないようにしています。
「いやいや、浅草の町並みがあって、最後は無限列車も登場するじゃん」
と思う人もいるでしょう。
その通りです。
確かに、夜には街灯に明かりが灯り、路面電車は走り、鬼舞辻無慘は母子を自動車に乗せて見送っています。
でも、そんな設定を目にしていながら、それでもこの作品をイメージするとき、そこに近代のイメージは入ってこないのではないでしょうか。
これも、また『鬼滅の刃』が「分かりやすさ」を追求した結果ではないか、と考えています。
13.文明に近づかない炭治郎
やはり、大正文化を感じさせる回、といえば夜の浅草でしょう。
「第七話 鬼舞辻無慘」のクライマックスはもちろん、敵のトップである鬼舞辻無慘との遭遇ですが、この回をそれだけで片付けるのはもったいないほど、アニメーションの描写は力が入っています。
浅草編は、夜にそびえる浅草十二階(凌雲閣)と噴水、という美しい構図から描写が始まります。
これがすでに見とれてしまうくらい綺麗なんですが、
ここから、目にも煌びやかな浅草商店街を見せます。奥には雷門でしょうか。
手前を、ゆっくりと路面電車が横切っていきます。
とにかく電飾が鮮やか!
まるで映画のワンシーンかのような豪華なシーンを見せつけるのですが、この遠目の美しさの描写はわずか10秒だけ。
このあとは、炭治郎と禰豆子が浅草の町の大きさに圧倒されながら人ごみや路面電車を避けるように移動します。
そして、たどり着いたのは
屋台のうどん屋!
ここでもしっかりと浅草十二階が映っているのも面白いです。
さて、ここで、ようやく炭治郎はひと息つくのですが。
この場面転換にどれだけの意味があるのでしょうか?
ここまで大正時代の夜の浅草を存分に綺麗に描いているのですが、そこからうどん屋に移動して起きるメインイベントは、炭治郎が、うどんに口をつけた瞬間に強烈な鬼の臭いに気づく、というものです。
しかもその臭いは、鬼舞辻無慘が浅草の町中にいると告げていて、だから、炭治郎は再び町に戻っていきます。
ここで、わざわざうどん屋に来た意味は??
一連のストーリー展開に無駄を感じます。
これは、一体どういう意図があるのでしょう?
ただ、ひとつ考え付く理由があります。
「鬼舞辻無慘との遭遇」という場面を浅草の町に邪魔させない
という狙いではないでしょうか。
浅草の町の華美さを最初にしっかりと描写しつつ、炭治郎が屋台のうどん屋へ移動した後で無惨の存在に気づく。これで視聴者の印象は浅草からうどん屋に上書きされます。
その後は、浅草の町は単なる背景に過ぎず、視聴者は頭の片隅に「浅草」という簡単な設定だけを記憶にのこしつつ、炭治郎が人ごみをかきわけて鬼舞辻無慘に初めて遭遇する、という劇的なシーンに集中することができるのです。
ちなみに、この後も、この作品はアニメの粋を、さりげなくイヤと言うほど見せ付けてきます。
例えばこれ
大正時代の自動車がリアル・・・
ではなくて、車のガラスに反射する描写が細かいんですよ。
スリットで誤魔化せばいいようなところですが、しっかりと描いています。
珠世の家も丁寧です。
この玄関の模様、必要!?
家の中も手を抜きません。
いやあ、瓶の中身が気になるー
ちなみに、珠世さんの屋敷のこの2つのシーンとも
原作にはない構図なんですよ。
ゼロから絵を起こしているのに、この丁寧な描写には舌を巻きます。
でも一番大事なことは
これらのどのシーンをとっても、本編にはまったく影響がないということです。
だから、多くの視聴者は、背景描写に気をとられることなく、キャラクターに集中して物語を楽しむことができるのです。
14.経済を描写しないしたたかさ
大正時代は、「大正デモクラシー」という言葉もある通り、政治、経済、文化の民主化が急速に発展した時代です。
欧米から新しい文化がタイムリーに輸入され、その文化が流行となって日本の経済を活性化させていく、そのような循環がめまぐるしく起きている、そんな時代です。
中には、この大正時代に、大衆文化や芸術、教育など、現代につながる一通りの土台が出来上がったとする評論家もいるくらいです。
でも、『鬼滅の刃』は、そこには触れません。
なぜなら、
鬼殺隊と鬼の戦いにとっては、余計な不純物だからです。
ここでも、背景として見せても関わりは避けるテクニックを使っています。
テクニックとはなにか?
売買の描写をしないことです。
もう一度、浅草のうどん屋のシーンに戻ります。
炭治郎は、一度うどんを頼みながら、無惨の存在を知り、ほとんど口をつけることなく一度うどん屋を去ります。
後に、無惨を逃して戻ってきた炭治郎に対して、店主は
「金じゃねぇんだ!お前が俺のうどんを食わないって心づもりなのが許せねぇってのさ!」と啖呵をきります。
それに対して、もう一杯食べると宣言する炭治郎。
実際には禰豆子の分と合わせて二杯たべるのですが、
本当にお金を払わずに立ち去ります
律儀な炭治郎にしては、これは違和感あります。
映像にないところで支払っているのかも知れませんが、そのシーンは存在しません。
あるいは最終話、26話の無限列車に乗るために駅に向かうシーン。
駅に到着したかと思う間もなく
もう、無限列車の前にいます。
つまり、ここでも切符の購入は省略されているのです。
こういった売買表現がないのは、炭治郎に限ったことではありません。
小は村の商い問屋から、大は浅草の大通り商店まで、不思議なほどに物を買ったり、お金を払ったりするシーンがないのです。
唯一、第2話で炭治郎が小銭を使うシーンがあります。
ただ、これも売買というよりは、「タダでくれる」というものにお金を払うという、炭治郎の律儀さのビジュアル化なだけであって、小銭の比較的雑な描写にもその一端が表れています。
(このシーンがあるだけに、なおさらうどん屋でお金を払わない不自然さが浮き立ちます。)
これらは、どういうことでしょうか?
私は、売買のやりとりを見せたり、貨幣そのものを描写することで、視聴者の目が大正時代の経済社会に移ってしまうことを避けるためだと考えています。
なぜ、避けたいのか。
これもやはり、鬼殺隊と鬼との対決にスポットライトを集中させたい、
つまりは、分かりやすいアニメにしたい、という表れだと思います。
15.政治を介入させない割り切り
大正時代を舞台にした場合、江戸時代以前や異世界ファンタジーと違い、設定を扱ううえで難しいのは、国内も国外も相当なレベルで情報が開かれている、という部分かと思います。
江戸時代であれば徳川家による統治、鎖国や地図の不整備、異世界ファンタジーであればそもそも知らない世界、という条件付けによってかなりの情報統制をとることができます。
しかし、大正時代ともなると、新聞や雑誌も存在しており、情報はより共有しやすいものとなっています。
そんな中、『鬼滅の刃』では、鬼殺隊を 第1巻で
「政府から正式に認められていない組織」
と説明しています。
ここの解釈は、いろいろ出来るかと思いますが、
政府はその存在を知っているが表沙汰にはできない。しかし、国益に沿うので黙認している
あたりが妥当な読み取り方なのかな、と考えています。
ただ、この考え方をそのまま描写してしまうと、
・国は知ってるけど隠している?
・民間ではどのように情報が出回っているのか?
などと、さらにいろいろと考えてしまう部分がでてきます。
ここで大事なことは設定の解釈ではなく、
視聴者に政治設定を意識させないことです。
何故なら、視聴者が
「でも、鬼殺隊の存在って、国にとって危ない存在なのでは?」
などと思ってしまおうものなら、この作品は、
「鬼殺隊」と「鬼」と「政府」が三つ巴の関係となり一気に複雑な物語に変貌してしまいます。
これは、分かりやすさを求めるうえで非常に弊害になります。
ではどうするか?
国家組織は存在するが、鬼殺隊とも鬼とも関係性をもっていない
という、あえてお互いの関係性をぼやかしたところを落としどころにして、作品の分かりやすさを保っているのです。
その描写が、やはり7話の浅草の警察が登場する場面です。
こにシーンでは、警察は、騒ぎを起こしている鬼と炭治朗を取り押さえよう集まってきますが、珠世の血鬼術により目くらましで逃げられた後は登場しません。
これは、「国家機関はちゃんと存在しますよ」というアイコンとして警察をだしただけで、物語自体には極力関わらせないようにした結果だと思います。
そして、これによって『鬼滅の刃』を分かりやすい作品たらしめてようとしているのではないでしょうか。
いかがだったでしょうか。
今回は、アニメ版『鬼滅の刃』の分かりやすさを、設定を省略によるものではないか、という側面から切り込んで見ました。
そして、ピンときた人もおられるかと思いますが、この「分かりやすさ」は裏を返せば「つまらなさ」と諸刃の剣であることも一言添えておきます。
ただ、『鬼滅の刃』は、「諸刃の剣」であることを恐れずに割り切って設定をばっさりと切った、それが結果的に多くの読者に受け入れられたことも人気になった要因の一つだ、ということは言えるかと思います。
アニメ版のお話、もう少し語っていきたいと思います。
(つづく)
※本記事で掲載されている画像は「吾峠呼世晴『鬼滅の刃』/集英社・アニプレックス・ufotable」より引用しています。