だむち~だって無知なんだもん~

底の浅い私、さくらだ が気になった主に漫画やアニメ、ゲームをぐだぐだと語っています。

ゲームブックの煌めき、再び?⑪


さくらだです。


ちょっとだけ広げた風呂敷が思いのほか大きくて、どうやってゲームブックに戻ってこようか悩み中です。


とりあえず、今回で3,4,5とお話をして、「さくらだ版ゲーム現代図」の紹介は終わりにしたいと思います。


1.1990年ごろまでのアナログゲーム
2.ファミコン前夜までのデジタルゲーム

3.ファミコン登場後のデジタルゲーム
4.1990年以降のアナログゲーム
5.2007年頃以降のゲーム



・・・たぶん。




31.ファミコン登場 デジタルゲームを席捲 その前に・・・


さて、もう何度も耳にタコができているかも知れませんが、いよいよ1983年、任天堂から「ファミリーコンピュータ」が登場します。


ちなみに「コンピューター」と最後を伸ばさないのは、当時のJIS規格による外来語の長音ルールでは、「3音節以上の語は語尾の長音記号を省く・2音節以内の語では省かない・複合語はそれぞれの単語による」とされていたからです。
 3音節以上・・・コンピュータ
 2音節以内・・・エラー
 複合語  ・・・モータカー


これを聞いて、「えー、でも今は、『コンピューター』の方が自然なのでは?」と感じる方も多いかと思います。さもありなん、実はこの後に、1991年に内閣告知により、外来語表記についてガイドラインが示されて、JIS規格とは異なる説明がされたことが一因です。




この中に、長音符の表記についても記載があり、基本的に「基本伸ばすけど、昔は伸ばしてない場合どっちでもいいよ」と、より表記ルールが曖昧になったのです。


英語の語末の‐er,‐or,‐arなどに当たるものは,原則としてア列の長音とし長音符号「ー」を用いて書き表す。ただし,慣用に応じて「ー」を省くことができる


ただ、IT用語に関しては、2008年にマイクロソフト社が発表した表記ルールの変更が具体性に富んでいたこともあり、実質ここで長音表記のルールがスタンダードになったと言って良いでしょう。





さてさて、ファミコンブームの話に入る前にもう一つ。


前回、ファミコンブーム前夜として、「カラーテレビゲーム15」に代表される家庭用ゲーム機と、「バンダイLSIゲーム」「ゲーム&ウォッチ」といった携帯電子ゲームのヒットがあったところまで説明しました。


では、これらの生みの親とも言えるアーケードゲーム、そしてまだ話に登場していないPCゲーム界はどうなっていたのでしょうか?


アーケードゲーム、つまりゲームセンターは、巨星「スペースインベーダー」亡き後も、1プレイで100円(50円、30円等の場合もあり)を失う、しかも場合によってはゲームではなく不良にカツアゲされる、という「修羅の国」とも言える治外法権を生み出しつつ、「パックマン」「ゼビウス」「ギャラガ」といったヒット作品を生み出し、独自のゲーム文化を形成していました。
「薄暗い照明(これは明かりの反射によってテーブル型筐体のゲーム画面が見づらくならないようにするためでした)」「不良のたまり場」というネガティブなイメージがつきまとっても、ゲーセンにいきたいと思わせる、デジタルゲームの発信源として重要な存在でした。



PCゲームについては、プログラムとゲームの線引きが難しい部分はありますが、1970年代後半にPCを手に入れた人たちは、まずプログラム文章を入力して、自分が意図した通りにそのプログラムが動作してマイコン上に結果が出力されることを楽しんでいました。これ自体がすでに一つのゲームと言ってもよいのですが、ここにストーリーやゲーム性を追加してゲーム製品として販売するゲームソフト会社が登場するのは自然の流れでした。


ただ、いかんせん、当時のPCは20~30万円するのが当たり前で、工学系の人間やマニアだけが目にすることのできる閉ざされた世界の話題でした。それこそ、ことPCゲームについては「カセットビジョン」や「ぴゅう太」のすごい版、ぐらいの認知度しかなかった、と言うのは大げさでしょうか。
しかし、この、ある意味当時ゲームカテゴリでは一番マイナーな「PCゲーム」という世界では、どこよりも早く、ゲームに対する新たな認識が芽生えていました。



ゲームは、むしろ一人でも面白い



当たり前のように見えて、一人でゲームを遊ぶ、という考え方はアナログゲームではなかなか難しい文化です。もちろん、例えば、「サイコロを5個投げてすべての目が6になるまで振り続け、出るまでの回数の少なさを競う」というルールを作って、自分のベスト記録を目指して遊ぶ、というようなケースはあるのですが、これは個々の「一人遊び」の範疇で、ゲームに含めるには広義すぎるかな、と思います。


LSIゲームが、当時、その域に最も近かったのですが、これはゲームのシンプルさゆえに、飽きが来るのが早く、むしろみんなでワイワイやるためのツールとして楽しむものとして、一人で「ハマる」という段階まではいっていなかったのかな、と。


その点、PCゲームは特別でした。
PCという、ゲーム本体、キーボード/マウス、モニター、と完結したハード構成に、毎回見たことのないゲーム世界を見せてくれるPCゲームソフト。それは、シューティングゲームであり、アドベンチャーゲームであり、RPGなのです。
これまでも一人でも遊ぶことができる(もしくは、自分でアレンジして一人用に楽しむ)ゲームは存在しましたが、ここまで一人で遊ぶことに適したゲーム環境を提供したツールは存在しませんでした。


PCゲームソフト会社、そしてゲームを開発していた人々は、いち早くこの可能性に気づいていました。彼ら彼女らはこぞって、「ハマる」ゲームを作り出し、そして、1983~84年にかけて、コンピュータRPGブームを生み出したのです。
ただ、やはり、これは「知る人ぞ知る」という世界での話でした。



そんな、各ゲーム業界が、それぞれの事情や思惑を抱えた中で、ファミリーコンピュータが発売されたのです。



32.(今度こそ)ファミコン登場 デジタルゲームを席捲 


1983年に任天堂から発売された「ファミリーコンピュータ」は、「プラットフォームとなるハードウェアを高性能かつ低価格で提供しつつ、サードパーティーを含めた優良なゲームコンテンツを多数販売して収益を確保する」というビジネスモデルを、ゲーム界で理想的に実現した家庭用ゲーム機となりました。


発売後のファミコンの活躍については、ここで触れるまでもなくみなさんご存知かと思います。実際、ファミコンから始まったビジネスモデルは、性能が向上し、ネットワーク機能を活用し、また世界へ展開されたという違いはあれど、今なお引き継がれています。


家庭用ハード機の歴史については、「ゲーム機大戦」という動画が非常に面白おかしく、それでいて分かりやすく役に立つ解説をしていますので参照いただくと良いと思います。
(パートを重ね製作者が代替わりして、ついに4時間超えの超大作になってしまっていますが・・・)




ゲーム機大戦【1~10完全版】最初から最後まで


ここで触れておきたいのは、ファミコン登場によるゲーム界全体への影響と当時をとりまく環境について、です。もちろん、相変わらずの妄想ベースのお話ですのでご容赦ください。



もともと、ファミコンに限らず家庭用ゲーム機には、決定的な欠点がありました。それは、テレビにつながないと遊べない点です。


「何を当たり前のことを」「それのどこが欠点?」という反論もあるかも知れませんが、これは当時の家庭環境にとっては大きな問題でした。


1975年、エポック社が初の家庭用ゲーム機「テレビテニス」を発売したとき、カラーテレビの普及率は9割を超えていましたが、100世帯あたりの保有数はほぼ100、つまり、カラーテレビの保有数はほぼ一家に1台でした。
ということは、ゲームはお茶の間でないと遊べない、かつチャンネル争いに巻き込まれないように遊ぶ必要があったのです。


ファミコンが登場した1983年には、もちろん状況は改善されていて、100世帯あたり約150台の普及率となっていましたが、これでもまだまだ「好きな時に遊ぶ」というには厳しい状況でした。



ところが、その後、3つの追い風が吹くことになります。


1つ目は1984年に一気にブレイクしたビデオテープレコーダの大ヒットでした。
ビデオテープレコーダ自体は1970年代に発売されていましたが、本体価格が高く(約25万円)、またVHS方式とベータ方式の互換性のない2タイプが凌ぎを削っていたため、標準方式が決まるまで見定めていた人がほとんどでした。
1980年に統一規格がVHSに決まり、ベータ推しのソニーが一時期反発しつつも1984年に観念してVHSのビデオデッキを販売すると、一気にVHSビデオデッキを購入する人が殺到しました。10万円以上するビデオデッキがバカ売れしたのです。


バカ売れの主な理由が「いやあ、みんなTV番組録画したかったんだよなぁ」という、純粋な理由でとは限らなかった、というのは有名な話です。同時期にレンタルビデオ屋が雨後の竹の子のように乱立したことがその答え合わせ、というところまでにしておきます(笑)



そして、2つ目は、1つ目の影響を受けて、ということもありますが、カラーテレビの普及率がさらに加速したことです。88年には、ついに100世帯あたりのカラーテレビ普及率が200%、つまり一家に平均2台以上持つようになったのです。
チャンネル争いの目線で考えると、ビデオテープレコーダの登場と合わせて、空いている時間にゲームができるチャンスが大幅に増えたことになります。ちなみに、このチャンネル争い、親よりも兄弟との間の方が激しく、その戦いが緩和されたことも大きい転換点でした。



3つ目は、88年の「ドラゴンクエスト3」の発売です。
ファミリーコンピュータは、83年の発売年には「マリオブラザーズ」「ドンキーコング」、翌年には「パックマン」「ゼビウス」と、アーケードゲームの実績を生かしたソフトラインナップを揃えていましたが、これは比較的家族や友人と楽しむゲームでした。
しかし、86年に「ドラゴンクエスト」を発売し、そのヒットにより製作者が「ゲームは、むしろ一人でも面白い」という手応えを得ると、続けてRPGの作品をだすようになり、それに気づいた他メーカーもこぞってRPGを発売するようになりました。


そして、ファミコンのRPGブームの最初の頂点が「ドラゴンクエスト3」でした。「一家にテレビ2台」となった88年発売、というのは偶然なのか必然なのか、「ドラクエをやらなきゃ遅れてる」という流行をつくりだすとともに、RPGをやり込むためのテレビ環境が整備された絶妙なタイミングだったのです。


当時のドラクエブームがどれほど凄まじかったか、当時の特集番組がYouTubeに挙がっていましたので参考にしていただければと思います。
ビックカメラ池袋店では、全長2Km、約10,000人が並んだとも言われていて、しかもこの中におそらくは転売目的の購入者がいなかったことも驚異的です。




Dragon Quest 3 release news TV show


そして、この日が、おそらくは、ファミコンが本当に意味で「国民的ゲーム機」となり、「子供に(そして、大人にも)必要なツール」であると大人が認識した日となったのです。



こうして、ファミコンは着実にビッグタイトルのゲームソフトを販売しながら、家庭用ゲーム機のトップシェアを維持し続けて、1990年発売の「スーパーファミコン」へバトンを渡すことになります。



めでたし、めでたし




と、良い話だけで終わればよいのですが、このファミコンやひいては家庭用ゲーム機全般の隆盛が、新規客層の開拓にとどまらず、ゲーム愛好家の民族移動をも引き起こした、ということも触れておきたいと思います。



「ドラゴンクエスト3」のヒットを経たファミコンブームと、テレビを含めたゲーム環境の整備により、家庭用ゲーム機は一定の市民権を得て、子供は以前よりもかなり自由に家でゲームを遊べるようになりました。


 これは、リスクとお金をかけてゲームセンターへ行く理由をなくすことに繋がりました。もちろん、コアなゲーマーはそれでもゲーセンに通いましたが、少し待てばゲーセンのゲームは移植版が発売され、何よりクラスの話題の中心はファミコンのゲームにあるのですから、あえて不良も集まるゲーセンへ行こうと考える人が減っていったのです。


 ゲームセンターは、体感型の筐体導入や、「テトリス」といったビッグタイトルで客足を取り戻そうとしましたが大きな流れには逆らえず、また「テトリス」は人気になったものの、すぐに任天堂の携帯ゲーム機「ゲームボーイ」のキラータイトルとして客足を奪われてしまうなど戦略的にも後手を踏むことになりました。


 この後、ゲームセンターは1991年にカプコムが「ストリートファイター2」を出して大ヒットを飛ばすことで「格ゲーブーム」を呼び起こし、ユーザー同士の対戦の面白さをゲーマーへ喚起することに成功しますが、それは、皮肉にも、台パン、椅子投げ、カツアゲという「修羅の国Ver.2.0」を生み出す要因にもなっていきました。ただ、この対戦熱が結果的にはe-Sportへつながっていく要因の1つになったとも言えますので、良かったのか悪かったのかの判断は難しいところです。



 では、PCゲーム界はどうでしょうか?
 もともとプレイ層が違うのだから、特に影響ない
 ・・・ということにはなりませんでした。


 実際のところ、「ドラゴンクエスト」が出た当初は、「PCのコンピュータRPGの劣化版」「よく出来ているが子供向け」と、PCから次々と発売される良作RPGを謳歌しながらファミコンのゲームは一段下に見下ろしている状態でした。


 ところが、ファミコンのソフトがものすごい勢いで進化し、また「ドラクエ」「FF」がナンバリングを重ねるごとに、明らかに面白いゲームへと成長しているのを目にすると、ユーザーは「あっちの方が面白いからやってみよう」と浮気するようになります。


 PCゲームソフト会社は、PCが持つ持ち前の処理能力の高さやグラフィックの力を生かしたRPGを打ち出して対抗しますが、そのことが却って「面白いRPGを作るため」という本来の目的を見失いがちになる、という悪循環を生んでしまいました。また、アーケードゲームと同様、PCで面白かったゲームは、少し待てばファミコンに移植される、という状況も「あえて高いPCでやらなくても」という消極性につながっていきました。


 結果、PCゲームで花形だったRPGブームは去り、日本ファルコム等の一部主力メーカーは奮戦しましたが、メインストリームから外れていくことになります。(PCユーザー数自体は、もともとコア層中心だった&ゲーム以外の楽しみ方もあるため横ばい)


 そして、PCゲームソフト会社は、今一度、PCが持つ持ち前の処理能力の高さやグラフィックの力を生かしたジャンルに注力していくことになります。


 それが、シミュレーションゲームアダルトゲーム(エロゲー)でした。


「いやいや、それは極端でしょ!」と思われるでしょうが、例えば1994年4月号のログインに載っている売上ランキングはこんな感じです。



 1位 三國志Ⅳ ・・・シミュレーションゲーム
 2位 ドラゴンナイト4 ・・・エロゲー(RPG)
 3位 提督の決断Ⅱ ・・・シミュレーションゲーム
 4位 A.Ⅳ. ・・・シミュレーションゲーム 
 5位 悦楽の学園 ・・・エロゲー(アドベンチャーゲーム)
 6位 雀妃楼 ・・・エロゲー (麻雀)
 7位 パワードール ・・・シミュレーションゲーム
 8位 機動警察パトレイバー ・・・シミュレーションゲーム
 9位 河原崎家の一族 ・・・エロゲー(アドベンチャーゲーム

10位 レッスルエンジェルス スペシャル ・・・シミュレーションゲーム


「8位のパトレイバーは流石に無理やりシミュレーションゲームに含めてない?」という風に見えるかもしれませんが、むしろこのゲームが当時のPCゲームの風潮を如実に反映していたかも知れません。


 このゲーム、市長となってバビロンプロジェクトを完成させる、都市経営ゲームだったりします。よもや、この視点からパトレイバーをゲーム化するとはっ



機動警察パトレイバー OPERATION TOKYO BAY プレイ動画 / Mobile Police Patlabor OPERATION TOKYO BAY (PC98) Playthrough


 これは極端な例ですが、それでも「ザナドゥ」「ハイドライドⅡ」「夢幻の心臓Ⅱ」といったRPGの名作がしのぎを削る時代が過去のものとなったのは間違いのないところです。


 この時期は、「わかりやすさ」を売りとしてRPGやアドベンチャーゲームを牽引したのがエロゲー分野で、これに思考を要求するシミュレーションゲームがジャンルを広げて試行錯誤を重ねるという構図で、エロゲーとシミュレーションゲームが不思議なバランスを保ちながら、この苦しい時期を乗り切っていくことになります。


 PCが再び脚光を浴びるのは、1990年代後半の「ウルティマオンライン」を始めとした「大規模多人数同時参加型オンラインRPG」(MMORPG)のブームまで待つ必要がありました。



33.そして、話は再びアナログゲームへ



ここで、またアナログゲームのお話に戻ろうと思います。


前回のアナログゲームの歴史紹介では、最後にこのような書き方で締めました。


それでも、1980年代は両者は共存しながら「愛好者ゲーム」の両輪として、ファンの間で親しまれていました。決してメジャーとはならないながらも、シミュレーションゲームとTRPGは安定したホビーゲームとして定着するように思われました。


ところが、この2つのジャンルも、パーティジョイと同じように1990年頃を境に人気が落ちていくことになります。


そして、1990年代。

それは、アナログゲーム界にとってシミュレーションゲームの終焉であり、TRPG冬の時代の始まりでした。



この後、一度デジタルゲームの話に移った理由がお分かりいただけたかと思います。



つまり、ゲーム愛好家は、ファミコンが発展しその最高峰として「ドラゴンクエスト3」が登場したことをもって「ゲームはむしろ、1人で遊んでも面白い」ということに気付いてしまったのです。


そして、家庭用ゲーム機は、ファミコンの後も、スーパーファミコン、プレイステーション、サターンといったハード機のバージョンアップに合わせるように、一人でも簡単に熱中できるゲームを次々と生み出していきました。



結果、デジタルゲームの手軽さと面白さに惹かれたライト層は、あらかじめ準備をして、人を集めて、場所を確保する、といった手間のかかるアナログゲームから徐々に離れていくことになります。
それほど、家庭用ゲーム機とそのソフト群がゲーム業界全体に与えたインパクトは大きかったのです。



それでも、なんとか定期ゲーム会などの交流を通じて、アナログゲーマーは集まってRPGやシミュレーションゲームを遊ぶ環境を維持していました。



そのつながりにとどめを刺したのは、デジタルゲームではなく、皮肉にも同じアナログゲームであるTCG、つまり1995年に登場した「マジック・ザ・ギャザリング」(MTG)でした。


TCGは、一言で言えば、とにかくヤバいゲームシステムです
決して、違法とかといった意味での「ヤバい」ではなく、一度TCGに触れて、その魅力を知ってしまったら、TCG以外のゲームのことが考えられない、というヤバさです。


「いや、誰だって、ものすごく面白いゲームに出会ったら、似たりよったりで同じ感情を持ったりするんじゃない?」


と思われるかも知れません。確かに意味合いは間違ってはいません。
ですが、TCGがヤバいのは、
色々なゲームに精通した人でも、ハマったら抜けられなくなる
というレベルのヤバさだった、という点です。


これは、私が言葉にするよりも、MTGのアルファ版のプレイテスターを行った方の発言が雄弁に物語っているかと思いますので一見いただければと思います。



[PV] Enter the Battlefield:『アルファ版』プレイテスターの物語



とにかく、1990年代後半、アナログゲーム界は一度TCG旋風によって、TCG以外のプレイユーザーの大半を刈り取られてしまったのです。



ところが、これが偶然なのかめぐり合わせなのか、同じ時期に別の方向からアナログゲームに風が吹き込むことになります。



それが「ユーロゲーム」です。



アナログゲームについて海外に目を向けてみると、アメリカでも1970年代後半には家庭用ゲーム機が、そして、80年代後半からPCゲームがゲーム業界を席捲して、アナログゲーム業界全体が衰退していくことになります。


一方で、1970年代のドイツやイギリスでは、アメリカのゲームに対して「アクワイア」などのゲームを高く評価しながらも、全般的にルールが雑で、文字依存が多く、子供が楽しみづらい部分を課題として捉え、自分たちに合った家族で楽しめるゲームを生み出そうという機運が高まっていました。


そんな中、1979年にドイツのゲーム評論家を集めて、その年最も優れたゲームを表彰しようとして生まれたのが「ドイツ年間ゲーム大賞」(SdJ)です。権威ある賞に選ばれたゲームは面白いので、表彰後そのゲームが売れることになり、結果ゲーム制作者を支援することになる、その理念のもとに設立された、としています。


ドイツ年間ゲーム大賞については、HAL99さんというベテランボードーゲーマーさんが、なんと1979年の第1回から2019年までの全作品について解説入りで動画紹介されていますので非常に参考になります。



ドイツ年間ゲーム大賞紹介 Vol.1 1979年〜1999年編- 【ボードゲーム】



ドイツ年間ゲーム大賞紹介 Vol.2 2000年〜2009年編 -【ボードゲーム】



ドイツ年間ゲーム大賞紹介 Vol.3 2010年〜2019年編 -【ボードゲーム】



さて、その3年後、1982年からエッセンで「エッセンシュピール」と呼ばれるボードゲーム見本市が開催され、これが年を重ねるごとに規模が大きくなり、今では世界最大のボードゲーム見本市と言われるようになりました。


このようにドイツで、ボードゲームに対するしっかりとした体制を取り組んで生まれたゲームは「ユーロゲーム」と呼ばれるようになり、これら根をしっかりと張ったユーロゲームは、家庭用ゲームやPCゲームに呑み込まれることなく発展を続け、そして1980年代後半に日本にも伝わるようになったのです。


このユーロゲームは、1990年時点の国内では認知度としてはかなり低く、海外ゲームにアンテナを張っていた一部の人の間で話題になっている程度でした。



しかし、言わば「表のアナログゲーム世界」で、シミュレーションゲームが衰退し、TRPGが人気を失っていく中で、相対的に「ユーロゲーム」は少しずつ認知されるようになっていきます。1995年のドイツ年間ゲーム大賞として「カタン」が受賞し、日本でも評判になったことで更に認知度が上がるようになりましたが、それでも、TCGブームがアナログゲーム業界に吹き荒れる中、「ユーロゲーム」はゆっくりとゆっくりと浸透していきました。


潮目が変わる1つのきっかけは2000年から開催された「ゲームマーケット」でしょう。電源不要のゲーム全般を対象としたゲームイベントですが、ここで様々なゲームが紹介され、遊べ、購入できるようになった、その中で「ユーロゲーム」というボードゲームの世界も広めることができたのが、その後のボードゲーム再発展へつながるようになったのだと思います。



その後の、TRPGの復活、人狼ゲームブーム等々を経てアナログゲームが復活していく様子は、「なんちゃって」の方でも触れましたので、ここでは省略しちゃいます。


繰り返しますが、ほぼほぼ妄想ですので、共感できるかできないかは十人十色と思います。でも、アナログゲームの発展には紆余曲折があり、そしてそれは現在進行形である、ということは間違いがないと思います。



34.最後にもう一度 デジタルゲームへ・・・は行かない


さて、最後に。
先程、「デジタルゲームは家庭用ゲーム機が覇権を握った」的な書き方をして一度締めました。


この章では、その後の事を書いていこうかな、と思ったんですが。


1995年以降のことは、結構年代関係なく、共通理解ができている気もしますので、特に補足するところもないかな、と思います。


強いて言えば、「Steam」が登場した2004年、そしてスマホゲーが登場した2008年に転換期を迎えた、ということができるのですが、どちらも今も絶賛活躍中ですので、説明不要ですよね?


いや、決して、早くゲームブックをやりたいから端折ろう、って訳じゃないですよ?



ということで、ゲーム現代図を読み解いてみましたが、いかがだったでしょうか?


私自身も、改めて全体像を見て(勝手に)納得した部分もあって面白かったです。



さて、そろそろ、TRPG、そしてゲームブックの方へ行きましょう。


次回っ(笑)


(つづく)

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