だむち~だって無知なんだもん~

底の浅い私、さくらだ が気になった主に漫画やアニメ、ゲームをぐだぐだと語っています。

ゲームブックの煌めき、再び?⑩


ゲームブックを開封したいがために、アップするペースをあげようか焦っている さくらだです。


そうは言っても、寄り道も楽しいのが悩ましいところ。


さて、今回もゲーム現代図を貼ってスタートします。


さて、これを見ながら、どう話を進めるのが良いのかなぁ、と思っていたんですが、私の妄想的には、こういう順番で書き出していくと比較的スムーズかな、と。


1.1990年ごろまでのアナログゲーム
2.ファミコン前夜までのデジタルゲーム
3.ファミコン登場後のデジタルゲーム
4.1990年以降のアナログゲーム
5.2007年頃以降のゲーム


結構な項目ありますが、あくまでも今回はゲームブックのコラムですので、極力さらっといくようにします。できるだけ・・・



追記:結局、長くなってしまいました。すみませんっ


29.アナログゲーム発展期~ホビージャパン創刊からRPGブームまで~


どのあたりを省略すれば、浅いながらも掘り下げになるかな、と考えつつ、ミニチュアゲームが国内で流行り始めたところは触れておいて良い感じがします。


もともと、「愛好者向けゲーム」の原型がミニチュアを操作する戦争ごっこにあった、ということは、第3回で雑誌タクテクスを紹介するくだりで話題に挙げたかと思います。



このミニチュア・ウォーゲームが国内に広まったきっかけとなったのが、1969年に創刊された「月刊ホビージャパン」という模型雑誌です。もともとは、模型を拡販するために海外のミニチュア・ウォーゲームを紹介していたのですが、これが思いもよらぬ反響を呼んだことから、ウォーゲームの知名度が挙がっていくことになります。


ところが、このミニチュア・ウォーゲームというのは、望みの戦場を再現するためにはジオラマを用意し模型を買い揃える財力を必要とするうえ、模型を並べることによる臨場感や兵士への感情移入などを楽しむことがメインのためゲームとして統一したルールが確立されていない、万人が遊ぶにはハードルの高いゲームでした。


そこで、このウォーゲームのゲーム性を重視しつつ誰でも楽しめるように作られたのがシミュレーションゲームでした。シミュレーションゲームでは、ゲーム性と史実再現性、そしてコストパフォーマンスを高めるため、大きく3つの特徴が挙げられます。


1.リアルな平面マップ
 まず、コスト面から、ゲームの舞台となるボードは、ジオラマから平面マップへになりました。マップには距離を正確に測ることができるよう六角形のマス目(ヘクス)が敷かれ、また地形の違いはボード上に直接絵によって再現されました。また平面マップであれば折りたたみが可能であり、ゲームのコンパクト化にも一役買いました。


2.ゲーム要素のパラメータ化
 ミニチュアゲームでも、移動距離や地形効果等、ある程度は数値によるコントロールはされていましたが、あくまでも目安程度のものでした。シミュレーションゲームでは、ゲームに関わるあらゆる要素は数値化され、その数値の対比や数値による修正により、そのゲームでの判定方法など特徴を決定付けました。


3.平面ゴマの最大活用
 マップが平面のボードになったことによって、コマも基本的に平面コマ(ユニット)で良いことになりました。ユニットは安価である他に、積み重ねる(スタック)ことができ、また、コマの表面上に能力や数値を記載することも可能なため、ゲームの網羅性を高めるために欠かせない要素となりました。



といったところまでがひとまずの説明になります。
これ以上の詳しい話は、ぜひ専門の方々の記載を見ていただくと、ものすごーくタメになります!


一つは、「電ファミニコゲーマー」の多根さんが書かれている「ゲーム語りの基礎知識」です。コンピュータSLGの説明にあたり、ボードゲームの歴史までさかのぼって紐解いておられ、ついつい読み入ってしまいます。



もう一つは、4gamerより、長浜さんが執筆された「「ウォーゲームってなんすか?」と聞かれたときに聞かせたい話。」。実際にシミュレーションゲームの写真を掲載しながら、それぞれのゲームの特色や当時のプレイ観をがっつりと紹介されていて、最初から「もう、こっちだけ読んでもらった方が良いかも」と思ってしまうほど素晴らしい記事です。




さて、ミニチュアゲーム時代には、異色といえる流れがありました。それは現実にはない世界、ファンタジーを舞台にしたミニチュアゲームを楽しむ人達もいた、ということです。主に中世を模した世界には、冒険者とそれに相対するドラゴン等のモンスターがいて、ウォーゲームと同じように、ジオラマの上でミニチュアを操って戦闘を行っていました。


もちろん、これらもシミュレーションゲーム化の流れに合わせて、平面マップ、ユニット化されていきますが、冒険者をどのように数値化するか、という部分は、ウォーゲームとは一緒くたすることが難しい問題でした。


なぜなら、武器や兵士は(少し残酷ですが)駒であり、お互いの戦力をぶつけて、撃破するかされるかを判定すれば良いですが、冒険者は基本的には1人1キャラを演じるかたちであり、感情移入も強いこれらのキャラクターに対して、1回戦闘に敗北したら即除去というのは具合が悪かったのです。


その中で生まれたのが、キャラクターごとのパラメータ設定であり、キャラクターの成長システムでした。そして、彼ら彼女らの冒険者は、ウォーゲームのように戦争で対戦する相手を求めるよりも、ワクワクするようなダンジョン探索や、仲間とモンスターを倒す協力プレイを求めるようになりました。そんな冒険者たちに対して、ダンジョン内の説明やモンスター役、あるいは進め方に迷ったときの導き手として「ゲームマスター」という新しいシステムが生み出されることになったのです。これがTRPGのスタートとなります。


TRPGもミニチュアゲームから派生しているだけあって、TRPG初期はミニチュアとマップありきで、例えばダンジョン探索にしても、今のような会話中心ではなく、マップ上の配置や射線を気にしながら行動するスタイルを取っていた点はとても興味深いです。実際、「ダンジョンズ&ドラゴンズ」はもちろんですが、国内の本格ファンタジーTRPGである「ローズ・トゥ・ロード」も、ヘクスマップとキャラクター、モンスターユニットが同梱されていました。




こんなかたちで、海外では70年代にシミュレーションゲームとTRPGが同時並行的に生まれるわけですが、国内ではこの2つの流行時期には大きな開きがありました。シミュレーションゲームは、言語依存が比較的少なく、また対戦ゲームという原初的な遊び方を踏襲しましたので、国内でも割合と同時期に展開されましたが、TRPGはその未体験の遊び方と面白さ故に、そのゲーム性を理解し「日本に広めないと」という流れが生まれるには、1981年の安田均さんの登場を待たないといけませんでした。


そして、雑誌タクテクスでのTRPGの面白さ紹介記事を経て、1983年ごろから国内でも楽しめるTRPGが次々と登場し、1984年以降にTRPGブームが巻き起こったのはこれまでに書いた通りです。
そう、「なんちゃってゲーム現代史」とは異なり、現実には1980年代には、(愛好家の間で、ですが)TRPGは大ブームを迎えたのです。これが、割合と現在では知られておらず、TRPGが生まれたのは2006年ぐらいでは?と認識されがちです。


この理由については、前に触れた「ネット時代以前に途絶えたゲームの流行はなかったことにされてしまっている説」(そんな書き方してませんでしたが)が一つの仮説にはなります。ただ、それにしても、今「クトゥルフ神話TRPG」をはじめとしてTRPGが浸透しているのを見るにつけ、過去のブームがなかったことになっているのは不思議なきもしますよね?


そのことはもう少し後で掘り下げてみたいと思います。



さて、ここで話題を少し大衆ゲーム寄りにふってみたいと思います。
「前回、大衆ゲームは殿堂入りでもう語らないって言ったじゃん」というツッコミもありそうですが、ここでは「人生ゲーム」や「野球盤」といった鉄板のゲームではなく、それに挑んだゲーム、いやゲームシリーズがあった、という話です。


それが、1983年よりバンダイから発売された「パーティジョイ」シリーズです。
バンダイは1980年に「ドラキュラ」「おばけ屋敷ゲーム」と次々にボードゲームをヒットさせ、「ボードゲームはバンダイ」のキャッチコピーとともに、いよいよタカラの「人生ゲーム」に追いつき追い越そうと本腰を入れたのがこのシリーズでした。


・定価1,000円
・月1本の販売ペース
・似たりよったりのゲームにしない、ゲームごとの独自テーマ性


パーティジョイシリーズがこれだけ本気の開発方向性を打ち出した背景には、大衆ゲームもシミュレーションゲームも子供や学生が買うには値段が高く、自分のお小遣いでも買えて楽しめるゲーム、つまり、「ゲームを子供のために」という願望が込められていました。


この「パーティジョイ」シリーズは、手を抜かない良作揃いだったこともあり、発売当初は狙い通り学生、子供を中心に手堅いヒットを続けていましたが、結局約10年にわたり実に135本ものゲームを生み出しながらも、時代の流れの中で徐々に売上が伸びなくなり、1992年に幕を閉じることになります。


パーティジョイについては、これ自体の物語も大変面白く、興味のあるかたは書籍「すばらしきパーティジョイの世界」を一読されることをおすすめします!


すばらしきパーティジョイの世界
すばらしきパーティジョイの世界
スモール出版



そして、ふたたび、シミュレーションゲームとTRPGに戻ります。


シミュレーションゲームは、前述の通り、TRPGを新しいゲームジャンルとして後押しし、結果TRPGブームを呼び起こす貢献を果たしたのですが、皮肉なことにTRPGのユーザー層は新規開拓とはならず、自分達シミュレーションゲーマーのユーザーを減らすことになってしまいました。


それでも、1980年代は両者は共存しながら「愛好者ゲーム」の両輪として、ファンの間で親しまれていました。決してメジャーとはならないながらも、シミュレーションゲームとTRPGは安定したホビーゲームとして定着するように思われました。


ところが、この2つのジャンルも、パーティジョイと同じように1990年頃を境に人気が落ちていくことになります。


そして、1990年代。
それは、アナログゲーム界にとってシミュレーションゲームの終焉であり、TRPG冬の時代の始まりでした。



30.ファミコン誕生前夜~第一次デジタルゲーム戦争の顛末~


ということで、ここでデジタルゲームの黎明期に話を移そうと思います。




デジタルゲームのスタートは1971年のアーケードゲーム「ポントロン」、というのは前回書いたとおりですが、ゲーセンでブレイクしたゲームと言えば、なんと言っても1978年に登場した「スペースインベーダー」でした。



Space Invaders 1978 - Arcade Gameplay


スペースインベーダーは、メーカーであるタイトー不認可の製品も含めれば50万台が販売されていて、これは不滅の金字塔と言えます。


ただ、スペースインベーダーの凄いのは売り上げよりも、それが社会に与えた影響の方にこそあると言えます。


・デジタルゲームの市民権獲得


・インベーダーゲーム店の乱立


・ゲーム喫茶(喫茶店のテーブルをインベーダーゲームに)の登場


・駄菓子屋のゲーセン化


・不良のたまり場の醸成


・マンガ「ゲームセンターあらし」の連載開始


・シューティングゲーム文化の発展


・ゲームを「攻略する」文化の始まり


・家庭向けゲーム開発開始



あまり芳しくない影響も結構ありますが、個人的には後ろの3つに注目です。


1.シューティングゲーム文化の発展


 スペースインベーダーは、ゲームを遊ぶ人、そして開発者にシューティングの面白さを強烈なまでに植え付けました。それまで、シューティングと言えば「射的」ぐらいしかイメージが沸かなかった中、「襲い来るエイリアンを移動砲台からの攻撃で倒す」という世界観は鮮烈で、その後ゲームセンターでは、インベーダーゲームの世界観を様々な形でアレンジしようと、様々な敵から攻撃を受け、迎え撃つ側も様々な武装で迎撃する、というシューティング文化が一気に花開きました。
 「パックマン」「クレイジークライマー」「ドンキーコング」など、アーケードゲーム全体を見渡すとシューティングゲーム以外にも様々な名作が生まれていましたが、90年代に「ストリートファイター2」に端を発した格ゲーブームが訪れるまで、シューティングゲームがゲーセンの華であったのは、間違いなくスペースインベーダーの功績でした。



2.ゲームを「攻略する」文化の始まりと確立


 ゲームといえば、デジタルゲームが登場するまでは、対戦相手に勝つものであって、ゲーム自体を攻略する、という発想がありませんでした。ところが、アーケードゲームが登場するようになり、一人でゲームを遊べるようになることで「ゲーム攻略」という考え方が生まれました。
 そして、スペースインベーダーという爆発的人気のアーケードゲームが誕生することで、人は、少しでも長くゲームを楽しむ方法を求めるとともに、ゲームの上手さで優位に立つことを覚え、ここに「ゲーム攻略」の文化が確立されることになります。
 あ、もちろん、これは個人的な妄想です(笑)。
 ただ、ここから「名古屋撃ち」という裏技が生まれたり、平安京エイリアンでは「秋葉堀り」というセオリーが登場したり、と人より少しでも上手にゲームを遊ぼうと願う気持ちが「ゲーム攻略」というジャンルを生んだという考え方は、あながち外れていないかな、とも思っています。



3.家庭向けゲーム開発開始


 発売後、大人も巻き込みながら全国的なブームとなったスペースインベーダーの存在は、ゲーム会社に「デジタルゲームは家庭向けに作ったら絶対当たる」という強い手応えを与えました。
 デジタルゲームの家庭進出の方向性は2つあり、一つは「ゲームセンターの面白さをそのまま家庭に移す」ことであり、もう一つは「簡素化して子供に遊んでもらう」でした。



★家庭用据え置きゲーム機


 前者を成立させる鍵は、テレビへの接続を前提としたゲーム構成でした。当時、DVDの前身であるビデオテープデッキもまだ家庭に普及していなかった時代に、テレビにつないで遊ぶ、と言う発想は独創的かつ合理的でした。


 3C(カー、クーラー、カラーテレビ)が3種の神器ともてはやされて、テレビが一家一台の時代になっていた時代ですので、「ゲーム機本体と専用のモニターをセットで買ってください」と言うよりも「今、自宅にあるテレビにつなぐだけで遊べます」と言った方が、圧倒的に食いつきが良かったのです。
 テレビ=家族団らんという当時の構図から「家族で遊べる」というフレーズが馴染んだのも大きいでしょう。


 ただ、この発想を実現するためには、アーケードゲームの性能を家庭に持ち込むだけの技術の進化が必要です。


 このニーズに応えたのがICやLSIという電子回路の急速な進歩でした。



 この集積回路は、ざっくり言ってしまうと、様々な電気信号のやりとりを制御する小型の回路で、光をオン・オフしたり、スイッチを切り替える、といった動きをコントロールできる代物でした。


 この集積回路による電気信号の組み合わせを使ったゲームの中で、人気を博したのがいわゆる「ボールゲーム」と呼ばれる遊び方です。



テレビテニス


 1975年、エポック社が国内で最初にこのボールゲーム形式のゲーム機「テレビテニス」を発売しました。このゲーム機自体は、価格が高く家庭に普及するまでの製品とはなりませんでしたが、この後の「ボールゲーム機」ブームを予感させるものでした。


 この頃のボールゲームをメインとした電子ゲームの特徴としては、まだ仕組みとしてはシンプルであり、集積回路を確保してしまえば、外見を変えてどの会社からでも同じような内容でゲームを販売できることでした。
 この時期のライセンスに関する意識も低かった、というのも一因ではあると思います。(インベーダーゲームも海賊版の方が出回っていたというのは有名な話です)


 このあたり、武層さんという方が非常に詳しく書かれていますので、とても参考になります。



 武層さんのサイトに書かれている通り、このボールゲーム機戦争は、結果的に過剰供給の共倒れ状態を迎えつつ、任天堂が安価かつ高性能、多機能なボールゲーム決定版「カラーテレビゲーム6/15」を販売したことで決着が付きます。



任天堂 テレビゲーム15 Nintendo TV-GAME15 retro game 1977 2/2


 価格、操作性、ゲームの面白さ、どれをとっても1段上の製品の登場に、ボールゲームバブルは弾け、本当のゲーム会社だけが生き残っていくことになります。


 家庭用ゲーム機は、この後1979年の「ブロックくずし」時代を経て、1981年、エポック社が「カセットビジョン」を出すことで、ついに内蔵型の固定ゲームからカートリッジ交換による切り替え型ゲーム機へ次のステップを歩むことになります。


 このハードとソフトが分離する仕組みは、後のビジネスモデルをも変えてしまう革命的なアイディアでしたが、ここではその話は割愛するとして、この仕組みに飛びついたのは、当然、エポック社だけではありませんでした。


 バンダイは「RX-78」、タカラは「M5」、そしてトミーは「ぴゅう太」をぶつけて、この新しいゲーム機戦争に参戦しました。


 

【TOMY】TOMY自社開発の16ビット機"ぴゅう太"1982年登場


 このカートリッジ型ゲーム機の戦いの終止符を打ったのもやはり任天堂でした。1983年、任天堂が「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)を販売すると、その性能とソフトラインナップの豊富さから人気が上がり始め、やがて国民的ゲーム機の座を獲得するまでになったのです。



★携帯電子ゲーム(LSIゲーム)機


 「簡素化して子供に遊んでもらう」という発想も、その前提として「集積回路」の存在がありました。ただ、もしかしたら、これだけでは「携帯ゲーム機」という考え方は生まれなかったかも知れません。


 ゲームより前に集積回路が一般の人たちに広まったのは電卓でした。1960年代に発売された電卓は、小型で正確、誰でも操作ができることから爆発的なヒット商品となりました。


 この簡単な操作によって、瞬時に数字が画面表示される電卓。



「これ、ゲームに使えないかな?」と考えつく人がいない訳がなく。



 そうして、このLSIを利用しつつ、「インベーダーゲーム」を取り入れたという、子供にとっては夢のようなおもちゃが1979年、バンダイから発売された「ミサイルベーダー」でした。



電子ゲーム バンダイ LSIポータブルゲーム ミサイルベーダー 開封!


 スペースインベーダーと比べると、インベーダーは1機だけ、という単純なものでしたが、「インベーダーを避けて奥のUFOを狙って高得点」という一番大事なエッセンスをしっかりと取り込んでおり、大ヒット商品となりました。



 このLSIゲーム、ゲーム設計としては非常にシンプルで、予めランプで光らせる部分をすべて用意しておいて、これをLSIで制御してランプをオン・オフさせるものでした。


 言葉では表現が難しいので、ミサイルベーダー発売の翌年、1980年に任天堂が発売して大ブレイクした「ゲーム&ウォッチ」についてのインタビュー記事から引用したいと思います。



 ここではゲーム&ウォッチの「ファイア」を例に挙げています。


「ファイア」は、燃え盛るビルから飛び降りる人を、救助マットで受け止めながら、トランポリンのように弾いて(!)、救急車へ放り込むゲームです。


 予めランプで光らせる部分を全部書きだしてしまうとこんな感じです。
 


 これでは何がなんだかわからないですが、実際のゲームでは、このうちの必要な部分だけをLSI制御でライトオンさせ、他の部分はライトオフすることで、これが動きのあるゲームで見えるように仕上げていきます。



どうでしょうか?
飛び降りる人々は、非常にアクロバティックな動きをとっているように見えますが、実際には、予め決められた絵をライトオン・オフしているだけです。


救助マットを持っている人も、よくよく見れば3箇所の絵のうちの一つをライトオンしているだけです。


ところが、ここに「ビル火災で人を救助する」というストーリー「タイミングよく左右に自機を操作する」というゲーム性を加えることで、とんでもなく熱中できる「ファイア」というゲームが誕生したのです。



このLSIゲームの仕組み面白くしようする発想が絶妙に組み合わさった到達点の一つが「LSIベースボール」じゃないかと思います。



【昭和レトロ博物館vol.19】これはハマる!一人でも楽しめる! バンダイ LSIベースボール 開封&紹介 (1981-82年製)


「LSIベースボール」は1978年にバンダイから発売されたLSIゲームです。ルールは簡単に言ってしまえば「野球盤」をデジタルゲーム化したものです。


 要約してしまえばそれだけなんですが、これは「アナログゲームの自動処理化」の先駆けとして考えると、引き返すことがない大きな流れを作った作品とも言えます。(ちょっと大げさ?)


「野球盤」を例にもう少し具体的な話をすると、「野球盤」は言うまでもなく、パチンコ玉を野球ボールに見立てて、ホームベース上からフィールドに弾いたパチンコ玉が、予め「ホームラン」「アウト」などの結果が書かれている窪みのどこに落ちたかで結果を判定するゲームです。


「野球盤」には、この仕組のためにいくつかの制限事項が発生します。
1)野球のフィールドはパチンコ玉が転がって判定できる大きさが必要。
2)パチンコ玉は、投げ終わったら再度セッティングする必要がある。
3)出塁したランナー(駒)は、結果に従って都度動かす必要がある。
4)パチンコ玉は、必ずしも「窪み」に落ちない場合がある。
5)基本的に、攻撃側と守備側の2名のプレイヤーが必要


制限と言うよりは、当たり前の「手順」や「手間」と言った方が良いかも知れません。むしろ、それが「味」でもあり「感情移入」にもつながるという方もいるでしょう。ですが、ここでは客観的な位置づけで「制限」としてみます。


これが「LSIベースボール」では全て解消し、なおかつ進化します。
先程は一言で「アナログゲームの自動処理化」と書きましたが、ここには「省略化」「変換化」も含まれてきます。


ちょっと、余談がすぎるかも・・・という不安を抱えつつ、個人的に面白くなってしまったので、先程挙げた5つの制限事項が「LSIベースボールではどのように処理されたか見てきたいと思います。



1)野球のフィールドはパチンコ玉が転がって判定できる大きさが必要。
 これは、まさにデジタルの真骨頂と言えます。そもそも野球盤自体が、本物の野球をミニチュア化したものなのですが、そこには「実物による再現」という避けられない制限があります。デジタルゲームはその枠を超えてきます。考えてみれば「スペースインベーダ」なんて、非実在のものを表現してました(笑)。「LSIベースボール」は、投球やボール、打撃結果、そしてスコアと、すべての表示を「●」だけで表現したことでゲームをコンパクトにした点が非常に秀逸でした。


2)パチンコ玉は、投げ終わったら再度セッティングする必要がある。
 現実の野球だって1球ずつボールをピッチャーに返球するのですから、普通に考えれば自然なアクションですが、デジタルはその縛りを超えますなければそれに越したことはない、「LSIベースボール」は「投げ終わったらすぐにマウンドのライトをオンにする」というデジタルだからできる省力化をたやすく実現しました。


3)出塁したランナー(駒)は、結果に従って都度動かす必要がある。
 これはむしろ、「野球盤」だからこそ抱えた面倒さ、だったかも知れません。野球盤では、「投げて打つ」という面白さにスポットを当てる代わりに、ランナーは打撃結果を反映させる「駒」というところまで記号化しています。この駒を動かす部分はプレイヤーの手作業に委ねられます。これは取りも直さず、ホームベースを踏んで点数が入ったかどうか、というカウントも都度プレイヤーが記憶(もしくは記録)しておく必要がある、ということです。いちばん大事な部分ですが、「野球盤」では何気にこれが面倒だったりします。
 ところが、これらの計算処理は、電卓を見ても分かるようにLSIゲームは大得意。出塁ランナーを「●」で表示させることはもちろん、進塁結果を自動で処理することも、そして、そのイニングで何点入っているかを表示させることも朝飯前です。


4)パチンコ玉は、必ずしも「窪み」に落ちない場合がある。
「野球盤」は、打球が「窪み」に落ちた場所で打撃結果を判定するゲーム、と書きましたが、アナログゲームゆえ、「窪み」にボールが落ちないことがままあります。もちろん、ローカルルール含め、その場合の処理の仕方を決めておけば良い話なんですが、ゲームの仕組みとしては片手落ちな部分です(逆にそれが「味」にもなるのが、アナログゲームの特徴とも言えます)。
 LSIゲームでは、ライトオンされる場所=打撃結果が決まっていますので、この揺らぎは一切発生しません。その意味では、現実の野球でも「野球盤」でも発生する「誤審問題」が起こり得ない、というのも「LSIベースボール」の大きな強みです。


5)基本的に、攻撃側と守備側の2名のプレイヤーが必要
 当たり前の話ですが、野球であれば18名、「野球盤」でしたら2名のプレイヤーが必要です。昨今のアナログゲームも、時世の流れでソロプレイ可能なものも出てきていますが、少なくとも「野球盤」は攻撃と守備、2名で遊んでこそ、でしょう。
 とは言え、野球好きであれば、一人でも野球ゲームを遊びたい、というのも心情。「LSIベースボール」は投球を自動化することでソロプレイモードを実装しています。
 この「本来は複数名で遊ぶものをソロプレイでも遊べる」という発想自体は「LSIベースボール」に始まるものではありませんが、この後、デジタルゲームの存在価値を大きく高めることになり、一方でアナログゲームが一時的に逆風にさらされる一因となります。



といった感じで、いかに「LSIベースボール」の登場がエポックメイキングだったかを長々と説明しました。


そして、この勢いをかって、「LSIベースボール」が「野球盤」を駆逐した・・・
ということはありませんでした。



もちろん、発売当初の1978年には「ミサイルベーダー」と合わせて、バンダイのLSIゲームが市場の半分を占めるという大ヒットを遂げ、特に「LSIベースボール」はその後も数年ヒットを続けることになるのですが、任天堂の「ゲーム&ウォッチ」が登場するとそのコンパクトさと手軽さから人気がゲーム&ウォッチへ移行していくようになり、「ミサイルベーダー」も「LSIベースボール」もその流れには勝てませんでした。


バンダイ自身は、これに対して大人が遊ぶゲームに力点を移し「麻雀」など高級化路線を目指しますが、またもや任天堂の「ファミリーコンピュータ」の台頭の前に、カートリッジ型ゲームとの価格競争でも辛酸を嘗めてしまいます。
(もちろん、任天堂は戦略通り、軸足をLSIゲームからファミコンに切り替えたタイミングで、早々に「ゲーム&ウォッチ」の国内販売を終了)


こうして、純粋なハンドヘルド型のLSIゲームは、1978年の華々しい登場から想像が出来ないほど早く、1985年頃には市場から姿を消していくことになります。



ちなみに、一方、その後の「野球盤」はというと。



LSIの便利さを知ったエポック社は、対抗するどころかLSIの要素を積極的に取り入れてゲーム改良につなげていきます。そして、デジタルゲームの登場で、改めて、アナログゲームが持つ「手を動かす楽しさ」「家族ゲームの安定感」に手応えを感じた同社は、様々な試行錯誤で「LSIも使って、大人も子供も楽しめる野球盤」を模索し続けていきます。


この努力が実り、野球盤は、今なおお茶の間で楽しまれる大衆ゲームとして生き続けています。


ゲームに完成形が存在しない、だからいくらでも進化の余地がある、というのは、アナログ、デジタルの枠を超えたゲームの素晴らしいところかも知れません(謎の良いこと言った感)。



そして、そんな野球盤の最新版がこちら。




究極の野球盤?3Dエース モンスターコントロール 電光掲示板や球速まで測れる最新野球盤を紹介‼


進化しすぎっ



1.1990年ごろまでのアナログゲーム
2.ファミコン前夜までのデジタルゲーム

3.ファミコン登場後のデジタルゲーム
4.1990年以降のアナログゲーム
5.2007年頃以降のゲーム



と、ということで、ひとまず2番めまでお話が終わりましたので、次回は残りの3つを、今度こそさらっと流して話してみたいと思います。


(つづく)

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