だむち~だって無知なんだもん~

底の浅い私、さくらだ が気になった主に漫画やアニメ、ゲームをぐだぐだと語っています。

ゲームブックの煌めき、再び?⑥


このコラムを書くようになって、ゲームブックの話題一つ取るだけで、こんなにも気になる部分が広がってくるんだなぁ、としみじみ感じている さくらだです。


今回もいつもの表を貼って、スタートします!



15. マイコンからパソコンへ、計算機からゲームへ

さて、表におこした通り、1984年といえば、「火吹山の魔法使い」の発売年、よりも国内コンピュータRPGブームのターニングポイントの年、といったほうが良いのかもしれません。


それほど、この年を境に、国産コンピュータRPGが、綺羅星のように生まれました。


もちろん、偶然や降って湧いたように生まれたわけではなく、その下地はしっかりと存在しました。


理由の一つは、国産のコンシューマー向けコンピュータの台頭だと思います。



1980年代以前には、この手の端末は「マイコン」つまり「マイクロコンピュータ」の略称の名前で呼ばれることが多く、もともとが電子回路、電子基板を指していた言葉で、その用途は計算、プログラミングであり、ゲームはそれにより生み出された産物の一つに過ぎませんでした。



ところが、アメリカではこのマイコンをゲームに結びつけることで、とてつもない化学反応を発生させてしまったオタクかつ天才が何人も登場しました。


彼らは、前回TRPGリプレイとして紹介した「ダンジョンズ&ドラゴンズ」の登場によりTRPGの面白さに触れ、TRPGに必須となるゲーム進行役(ゲームマスター)をコンピュータにやらせれば、もっと沢山の人が気軽にRPGを楽しめるのではないか、と考えたのです。


ただ、当時はまだ、マイコンはビジネスやアカデミックな目的で利用されることが主で個人で所有することは稀で、彼ら彼女らは大学に設置された端末を使ってプログラミングしたり、それを遊んだりしたようです。



ともあれ、そういった限られた環境からスタートしたコンピュータRPGをですが、これがゲームが持つ恐ろしいところ、いったん、「これは面白い!」という評判が立ったが最後、噂が噂を呼び、大学からこのゲームに接続する人が急増、そして、プログラミングがわかる人は、ゲームを改良したり、自ら新しいゲームを作成したり、とその土壌を一気に広げていきました。



アメリカのパソコンの歴史を見てみると、1977年ごろに「ホームコンピュータ」として、マイクロコンピュータの第2世代が登場していて、これが(まだ高価ながら)家庭用コンピュータの走りになったようです。


それを踏まえると、「月刊ログイン」のところで触れた、アメリカ産コンピュータRPGの登場時期とも時系列がキレイにつながってきます。


1979 AKALABETH(「Ultima1」の前身となる作品)
1980 ROGUE(いわゆる「ローグ系」と言われる由来となるRPG)
1981 Ultima1、Wizardry



やっぱり、コンピュータRPGが本格的に浸透するためには、家庭にコンピュータが入ってくるというプラットフォームが必要となる訳です。


アメリカではその登場が1977年ごろでしたが、日本では約5年遅れた1982年から83年にかけての、16ビット、8ビットマシンである「パーソナルコンピュータ」の販売がそれにあたります。


このあたりも含めた海外のコンピュータゲームの背景は、「ダンジョンズ&ドリーマーズ」が非常に面白く、また参考になるかと思います。


ダンジョンズ&ドリーマーズ(第2版): コンピュータゲームとコミュニティの物語
ダンジョンズ&ドリーマーズ(第2版): コンピュータゲームとコミュニティの物語
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16.国産PC四天王、登場 そして1984年


ということで、国内に話を戻したいと思います。


やはり、家庭用ゲーム機でも、PCでも、まずハードがなければソフトが流通しない、ということで、1982年~83年にかけて、国内では、NEC、シャープ、富士通のいわゆる「パソコン御三家」が次々にコンシューマ向けPCの最新機を登場させました。


それが、「PC9801」「PC8801」(NEC)、「X1」(Sharp)、「FM7」(富士通)です。


この他にマイクロソフトとアスキーが他家電メーカーと連合するために「MSX規格」を考案して、ソニーや松下電器(現パナソニック)、日本ビクターから発売された「MSX」などがありました。


さて、パソコンが家庭に入ってきたら、そこから先はアメリカも日本も同じです。



そりゃあ、ゲームをやりたくなります。



ということで、日本では、それ以前にもアメリカでのコンピュータRPGの情報を入手していることも相まって、草の根ではフリークが醸成され、早くも20代そこそこにしてゲーム作成のためにソフトハウスを立ち上げる人たちが現れていました。


1983年は、そういう意味では国産コンピュータRPGブレイク前夜だったのかもしれません。


この年には、すでに光栄マイコンシステム(後のコーエー)が「剣と魔法」や「ダンジョン」といったダンジョンRPGを発売しており、日本ファルコムも「ぱのらま島」というタイトルでRPGを出し、後の足場づくりをしていました。



そして、明けた1984年、国産コンピュータRPGが大きく花開きました。



まず、光栄マイコンシステムから派生したBPSがダンジョンRPG「ザ・ブラックオニキス」を発売、さらにクリスタルソフトが2Dフィールドと3Dダンジョンを合わせた「夢幻の心臓」をリリースし、本格的な国内RPG展開に先鞭をつけました。


しかし、なんと言っても、同年に登場した日本ファルコムの「ドラゴンスレイヤー」、T&Eソフトの「ハイドライド」がその後の日本のコンピュータRPG、JRPGに大きな影響を与えたと思います。



[PC-88] Dragon Slayer (1984) (Nihon Falcom)



「ドラゴンスレイヤー」は、主人公の能力値の強化、武器や防具品の装備内容の向上によって、各プレイヤーが成長ルートをしっかりと考え、まるで自分自身が強く成長したかのように体感できる快感をフォーマット化しました。この系譜は、続編「ザナドゥ」にも引き継がれ、一気にこのスタイルを一定の到達点まで引き上げました。





[PC-88] Hydlide (1984) (T&E Soft)



一方で、「ハイドライド」は、TRPGの大事な要素である世界観や謎解きにスコープをあててフィールドマップとアドベンチャーパートを重視し、これにリアルタイムアクションによる行動を取り入れることで、プレイヤーのテクニックと頭脳に訴えかけるゲーム性を実現しました。


どちらも、「ウルティマ」「ウィザードリィ」をはじめとした海外RPGをいかに国内ユーザーが遊びやすいように取り入れるか腐心のうえ誕生した傑作であると同時に、他のRPG作品に影響を与え続ける作品ともなりました。



17.すべてが挑戦状だったPCゲーム

これは、コアゲーマーにとっては今でも当たり前のことかもしれませんが、当時のPCゲームは特に、製作者からの挑戦状としての趣きがありました。


どういうことかと言えば、ゲーム製作者はその世界の神であり、プレイヤーは挑戦者として神に挑む、つまり、ゲームがクリアできなければそれはプレイヤーがそこまで到達できなかったこと、という視点でプレイしていたということです。


もちろん、ゲームは製品でありプレイヤーは顧客ですので、本当に製作者がふんぞり返ってゲームを出している訳ではなく、そのくらいプレイヤーはPCゲームにのめり込み、ソフトハウスは生半可なソフトを出す訳にはいかなかった、ということでしょう。


攻略法を手に入れる方法が、知り合い同士のやりとりを除けば、雑誌や攻略本に頼るしかない、という限られた情報入手手段も、プレイヤーの攻略熱に拍車をかけたのだと思います。



例えば、今のゲームジャンルに「死にゲー」というジャンルがあります。いわゆる「初見殺し」という、最初のプレイでは死ぬのが当たり前で、死んで覚えるゲームのことを指します。


フロム・ソフトウェアの「デモンズソウル」や「ダークソウル」シリーズなどが、その代表格に挙げられます。


【PS5】Demon's Souls
【PS5】Demon's Souls
ソニー・インタラクティブエンタテインメント
ビデオゲーム


ただ、当時にはそのような言葉はなかったように思います。


「死んで覚える」なんて当たり前、でした
解けないゲームは「クソゲー」ではなく、プレイヤーが未熟なだけで、プレイヤーは自分が自分のどこが足りないのか、攻略の糸口を見逃していないか、アンテナを張りながらゲームをプレイしていました。


むしろ、死なずにクリアできるような難易度だった場合、ぬるいゲーム「ヌルゲー」としてやりごたえのない評価の低いゲームにすらなり得ました。


その一つの典型例として「ドルアーガの塔」が挙げられます。


Ultra2000 ドルアーガの塔
Ultra2000 ドルアーガの塔
メディアカイト
PCソフト


「ドルアーガの塔」は、ナムコが発売したアクションRPGで、ドルアーガにさらわれた姫カイを助けるために、主人公ギルを操作して60階層フロアダンジョンからなる塔の最上階を目指して冒険する、というお話です。


このゲーム、最初はアーケードで登場しました。
各階のフロアダンジョンのクリア方法は基本的に共通で、フロアのどこかに隠されている鍵や宝箱を見つけ出し、鍵を使って次のフロアへの扉を開く、というシンプルなものです。


ところが、序盤のうちは、鍵を出す条件が「敵を倒す」や「剣を出す」など、プレイしていれば自然とクリアできる内容なのですが、そのうち、「6色のスライムを決まった順番に倒す」「9秒間同じ方向へ歩き続ける」など相当に難易度の高い条件をノーヒントで見つけ出す必要に迫られる、かなり敷居の高いゲームでした。



しかし、プレイヤーは、その攻略に熱を上げて、情報を交換し、小銭を積み上げて、1階1階攻略を重ね、ついには60階を攻略してしまう。



ドルアーガの塔 ノーミスクリア 宝箱の出し方付き



そして、攻略本ですべてのフロアの攻略方法が公開される頃には、逆にほとぼりが冷めて次のゲームの攻略にとりかかる。



当時のPCゲーマーは、今のコアゲーマーが持っている「ゲームを遊び尽くす」という熱を誰もが持っていた、そのように思います。



アドベンチャーゲームの話になりますが、ファミコンの無理ゲーの一つに「たけしの挑戦状」があります。ゲームとしてあまりにも理不尽な攻略ポイントが多く、「クソゲー」の代名詞として有名ですが、PCゲームでは、このソフトと難易度では引けを取らないながら、「名作」とされるゲームが沢山ありました。(さすがに「たけしの挑戦状」の難易度は迷作の方で、評価は厳しいですが・・・)


例えば、日本ファルコムの「太陽の神殿」は、当時のアドベンチャーゲームの名作として名高いですが、「気づかないうちにハマってクリア不可になる」等、難易度でも最高クラスと言えるものでした。



YouTubeの動画をあげている方もいますので見ていたただければと思いますが、これをノーヒントで解くのに一体どれくらいの時間がかかるのか気が遠くなる内容です。



太陽の神殿 アステカII [ステレオ化] : Asteka II PC-8801 (PC-9821/P88SR)



ただ、このゲームをして「名作」たらしめているのは、ヒントはゲームの中にすべて落としこんである(非常に分かりづらいですが)、という製作者の挑戦状としての自負が見え隠れしている点にあるからかな、と思います。



それにしても、当時のPCゲームの製作者は、どうして、こんなにもプレイヤーにへつらうことなく、ゲームを通じて挑戦状を叩きつけるがごとく難易度の高い作品を用意していたのでしょうか。



これは、完全な妄想ですが、もしかしたら、PCゲーマーは、TRPGの経験の有無に関わらず、ゲーム開発者にTRPGの「ゲームマスター」の姿を求めていたのかもしれません。


TRPGではゲームマスターは、複数のプレイヤーを相手に、臨機応変にストーリーを展開し、時には敵として立ちはだかり、別のときには協力者として道しるべを示します。


ただ、PCゲームは、一度パッケージとして販売されてしまったら、もうそれきり手を加えることも軌道修正することもできません。


だからこそ、制作者は、そのユーザーの想いに応え、一人でカンタンに攻略できるものといった考え方でゲームを作るのではなく、プレイヤーが時には友人と相談し、時には雑誌の攻略ページをひっくり返しながら、製作者と対話をするようにゲームを楽しんで欲しいという思いがあったのではないか、そんな風にも考えてしまうのです。



18.そして、迷走しながらゲームブックばなしへ


さて、たいがいな妄想も出てきてしまう有様ですので、そろそろこのパートも手仕舞いをしていきたいと思います。


こんなコンピュータRPGにとって、ゲームブックとはどんな関係だったのでしょう?


これまた、毎度のごとく妄想になりますが、この2つは同時期に生まれた兄弟のような関係だったのではないか、と思います。すくなくともコンピュータRPGから何らかのかたちでゲームブックが誕生した、というのはなさそうです。


「デジタルと紙という、そもそも媒体がぜんぜん違うのに『兄弟』とは??」という疑問があがる方が自然かと思いますが、それは、この2つのジャンルがどちらもTRPGから生まれたものだから、という点に由来します。そして、もう一つ、その生まれる過程において「一人でも楽しめる」という点に着目している点も見逃せません。


TRPGとゲームブックの関係性については、今後紐解いていきたいと思いますので、ここではいったん、「へぇ、そう考えるんだー」ぐらいに生暖かく見守っていただければと思います(笑)。



そんな、兄弟のように親和性の高いコンピュータRPGとゲームブックの関係ですので、当然、コンピュータRPGで登場したものをゲームブックに展開する、という流れが起きることもごく自然でした。


世界的名作「ウルティマ」は、JICC出版局からⅠ~Ⅳまで発売されました。

画像はⅡのものですが、ここではたった291のパラグラフ数でウルティマの壮大なストーリーを纏めあげています。


原作より抽出した主要イベントに読み物としての味付けを施したものと、ニューヨークの地下鉄に乗っていた主人公が時空の歪みに紛れ込んでいくオープニング、原作にはないミナクスの謎等の若干のオリジナル・ストーリーとから、新たにプロットを作成し、アドベンチャーノベルとして、ロード・ブリティッシュ氏描くところの「ウルティマ」の世界、その魅力を堪能いただけるものをと考えました。


冒頭の引用文からも、ノベルスの短所を踏まえながら、「読み物」としての長所を最大限活かして、同じ作品を別の角度から光を当てる、という意気込みが伺えます。実際、キャラクターにパラメータの設定がなかったり(戦闘はアイテムの有無や選択肢で解決)パラグラフの半分以上は分岐点のない項目になっていて、その意味でも読み物としてストーリーを読みすすめることに重点を置いています。



JICC出版局は、ウルティマシリーズの他にも国産RPG「ザ・スクリーマー」そして「夢幻の心臓Ⅱ」を出版しています。



こちらは総パラグラフ数は292と前述のウルティマⅡとほぼ変わらないながら、なんと6つのステータス(体力、器用さ、耐久力、攻撃力、防衛力、精神力)をサイコロを振って決定する、という本格仕様。


戦闘に力点を置きながら、途中で装備を強化してパラメータをアップさせるなど、コンピュータRPGの成長要素を取り組んだ意欲作でした。


この他にも、当たり前ですが、ゲームブックはアドベンチャーゲームとも非常に相性がよく、JICC出版局からは「ウィル」「カーマイン」など当時の人気アドベンチャーゲームのゲームブック化もされていました。


「WILL デストラップ2」は、スクウェアから発売されたアドベンチャーゲームですが、解法を知っていれば10分かからず解ける内容にも関わらず、自力で解くには数日かかる、当時の歯ごたえのあるアドベンチャーゲームの代表例としても参考になるかと思います。



【PC88】ウィル デス・トラップ2【エンディングまで】


ヒロイン「アイシャ」が瞬きするアニメーションが大反響を呼んだ、というのも当時の黎明期の状況が分かり興味深いです。ちなみに、この作品のディレクターは、「ファイナルファンタジー」の生みの親、坂口博信さん。なるほど、グラフィックにも力が入っているのも納得です。



そういう訳で、とりとめがなくなってきましたが、コンピュータRPGは、ゲームブックが発展する題材として非常に相性は良かったものの、ゲームブック誕生そのものへの影響は小さかったのではないか、という想像をもって、このパートを終了したいと思います。


次回は、TRPG!


・・・の前に、ここまでの話の解像度を少しだけあげる(かもしれない)、補助線を2本引く話題をしてみたいと思います。



(つづく)

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